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第18話 逆さに歌う少女

Author: なつめ
last update publish date: 2026-08-13 20:11:30

 最後の鍵盤が沈んだまま、戻らなかった。

 音楽室の中には、逆向きに流れる少女たちの歌声だけが残っている。

 声は天井のスピーカーから降っているはずなのに、澪には壁の内側や床の下、閉ざされた楽器棚の奥からも聞こえた。吸い込まれるような発音。終わった言葉から始まり、息継ぎまで逆へ流れていく。

 五人は誰も耳を塞がなかった。

 スマートフォンに届いた指示が頭から離れない。

 途中で耳を塞いだ人は帰れません。

 たとえ人間が作った脅しだとしても、透が死んだあとでは試す気になれなかった。

 奈々香は両腕を身体の脇へ押しつけるようにして立っている。耳を塞がない代わりに、指先がレインコートの布を強く掴んでいた。

「何か入ってる」

 朔が言った。

 胸元の小型カメラを外し、録音状態を確認している。

「歌以外に?」

 美月が問う。

「低い声。普通に聞くと潰れてる」

 朔はカメラから音声だけを端末へ送り、波形を表示した。

 透ほど専門的な機材ではない。それでも映像制作の現場で使う程度の処理はできるらしく、朔は周波数を分け、歌声の高い帯域を少しずつ削っていく。

 少女たちの声が薄くなる。

 その下から、ざらついた息のようなものが現れた。

「逆向きだから分かりにくい」

 朔の指が画面を滑る。

「戻す」

 再生方向を反転させる。

 さっきまで喉へ吸い込まれていた声が、今度は自然な歌になった。

 古い校歌。

 少女たちの合唱。

 八年前に澪が廊下で聞いたものと同じだった。

 胸の奥がざわつく。

 窓の外では雨が降り続いている。楽譜の散らばる床を湿気が這い、腐りかけた木材の匂いへ、古いピアノの塗料と錆の臭いが混ざっていた。

 歌声の下に、別の声があった。

 小さい。

 ひどく近い。

『鏡を見て』

 澪の肩が強張る。

 朔が音量を上げる。

『本当の人数は、鏡に映る』

 音声が途切れた。

 五人は同時に、音楽室の奥を見た。

 壁際に、大きな姿見が立っていた。

 澪は先ほどまで意識していなかった。

 高さは一メートル半ほど。木製の枠は黒ずみ、上部の装飾が半分欠けている。鏡面には斜めへ大きな亀裂が走り、蜘蛛の巣状の細い割れが右下へ広がっていた。

「こんなの、あった?」

 奈々香が囁く。

「最初からあった」

 悠斗が答える。

「入ったとき、壁際に見えた」

「私は見てない」

「見てないだけだろ」

 奈々香は返さなかった。

 鏡には五人が映っている。

 朔。

 澪。

 美月。

 悠斗。

 奈々香。

 それだけだった。

 七人目どころか、透の姿もない。当然だった。透は二年七組へ安置したままだ。

「五人だ」

 悠斗が言った。

「何が本当の人数だよ」

 安堵に近い苛立ちが声に混ざる。

 その横で、奈々香の顔が凍った。

「やだ」

 小さな声。

「奈々香?」

 美月が振り向く。

「やだ……触らないで」

「誰も触ってない」

「いる」

 奈々香は鏡を見つめたまま動かない。

 瞳孔が大きく開き、呼吸が浅くなる。

「右肩」

 震える声。

「私の右肩から、髪が……」

 澪は奈々香の肩を見る。

 明るい色のレインコート。

 濡れた髪は本人のものが胸元へ落ちているだけだ。

「何もないよ」

「ある!」

 奈々香が叫んだ。

「黒い髪。長いのが、肩から垂れてる。私のじゃない。もっと長い……床まである」

 自分の肩へ触れようとして、手が途中で止まる。

「触らない方がいい」

 澪はゆっくり近づいた。

「鏡から離れよう」

「来ないで」

 奈々香が言った。

 だが、現実の身体は動いていなかった。

「奈々香?」

 澪が足を止める。

 鏡の中では、奈々香が一歩後ろへ下がっていた。

 現実の奈々香は同じ場所に立っている。

 鏡像だけが、澪から逃げるように距離を取っている。

「今……」

 悠斗も気づいた。

「動いたか?」

 奈々香は泣きそうな顔で首を振る。

「私、動いてない」

 鏡の中の奈々香だけが、さらに半歩下がった。

 靴が床を踏む。

 音はしない。

 割れた鏡の中で、彼女は五人とは違う場所に立っている。

 一拍遅れて、鏡像の奈々香が振り返った。

 現実の奈々香は正面を向いたまま。

 鏡の中だけで、背後を見る。

 そこに制服姿の少女が立っていた。

 紺色の制服。

 長い黒髪。

 右手首に、赤い組紐。

 澪の喉が鳴った。

「澄花……?」

「どこ」

 美月が鏡を覗き込む。

「私には奈々香しか見えない」

「いる」

 澪にも見えなかった。

 鏡の中に映っているのは五人だけ。

 制服姿の少女などいない。

 けれど奈々香の目だけは、確かに何かを追っている。

「来ないで」

 奈々香が鏡へ向かって言った。

「私、何もしてない」

 制服姿の少女が見えているのは、奈々香だけだった。

「本当に何もしてない。澄花、私じゃない。あのときだって、私は――」

 声が途切れる。

 鏡の中の何かが、奈々香へ近づいたのだろう。

 奈々香の肩が小さく跳ねる。

「奈々香、こっちを見て」

 美月が声を低くした。

「鏡じゃなく、私を見るの」

「無理」

「見なくていいものを見てる可能性がある。顔をこっちへ向けて」

「耳元にいる」

 奈々香の唇が震える。

「何か言ってる」

「聞かなくていい」

「澄花が……」

 左耳へ、黒い髪が触れているように奈々香が首を傾けた。

「奈々香」

 澪が呼ぶ。

 奈々香は返事をしない。

 左耳から、赤い液体が一筋流れた。

「血!」

 澪が息を呑む。

 赤は耳朶を伝い、顎の横へ落ちた。

 美月が一気に距離を詰め、奈々香の肩を掴む。

「鏡から離れる!」

「痛い!」

「歩いて!」

 奈々香は抵抗した。

 けれど美月は強く身体を引き、姿見から数メートル離す。

 鏡との間に悠斗が立ち、視線を遮った。

 美月は奈々香を椅子へ座らせ、救急鞄を開く。

「耳を触らないで」

 手袋をつけ、小型ライトで左耳を確認する。

「どこが痛い?」

「中。刺されたみたいに……」

「聞こえる?」

「聞こえる」

「耳鳴りは」

「少し」

 美月は外耳を調べ、慎重に耳の中へ光を入れた。

 眉が寄る。

「傷がない」

「血が出てるじゃん!」

「だから、おかしい」

 美月は清潔なガーゼで血を拭った。

 赤は確かについている。

 だが皮膚に裂けた場所がない。

 耳道にも見える範囲の傷はなく、鼓膜も破れていない。

「鼓膜にも異常はない」

「じゃあ、この血は何」

 奈々香が泣きながら訊く。

「分からない」

 美月の返答は短かった。

 ガーゼに付着した赤を見つめる。

「少なくとも、今見える範囲に出血源はない」

 朔はその間に姿見へ近づいていた。

「鏡に細工がある」

「触らない方がいい」

 澪が言う。

「表面じゃない。裏だ」

 朔は手袋をつけ、姿見の枠へ懐中電灯を当てる。

 木製の背板と壁の間に、新しい配線が見えた。

 悠斗が一緒に姿見を動かす。

 重い枠が床を擦る。

 裏側から、薄い黒い板が現れた。

「液晶?」

 奈々香が遠くから見る。

「透過型の薄い表示板だ」

 朔が答える。

 鏡面の一部へ映像を重ねるためのものらしい。

 さらに枠の下には、小型の投影機と距離を測るセンサーが仕込まれていた。

「人が立つ位置を読む」

 朔が機器を確認する。

「姿勢と距離を取って、特定の角度からだけ別映像を重ねられる」

「じゃあ、私が見たのもそれ?」

 奈々香が掠れた声で訊く。

「可能性はある」

「可能性って何」

「データを確認する」

 朔は小型投影機から記録媒体を外した。

 端末へ接続する。

 保存されているファイルは数個だけだった。

 暗い廊下。

 空の教室。

 雨に濡れた窓。

 壊れたピアノ。

 どれも短い映像。

 制服姿の少女は一つもない。

「別の場所から送ったんじゃないのか」

 悠斗が言う。

「通信記録がない」

「消した可能性は」

「ある」

 朔は否定しない。

「でも、少なくともこの装置には、奈々香が見たと言っている映像は残ってない」

「私が嘘をついてるって言いたいの?」

「言ってない」

「じゃあ、あれは何だったの」

 奈々香の左耳からはもう血が出ていない。

 ガーゼへ残った赤だけが、見間違いではなかったことを示している。

「装置は本物」

 美月が言った。

「でも、装置に入ってないものまで見えた」

 誰も続きを言わなかった。

 人間が作った罠。

 その上に、別の何かが重なっている。

 音楽室のピアノと同じだった。

 ソレノイドは確かに存在した。

 朔の予備バッテリーも使われていた。

 だが、電源を外したあとも歌は続いた。

 録音されていないものが聞こえ。

 保存されていないものが映る。

 黒板の上で、白い粉が落ちた。

 さら。

 五人が振り返る。

 音楽室の黒板には誰も触れていない。

 それでも白い線が内側から浮き上がっていく。

 三つ目

 その下へ続く。

 西棟一階

 姿見の廊下

「まだ二つ目が終わったばかりだろ」

 悠斗が呟く。

 スマートフォンを見る。

 七つの学校章のうち、二つ目が赤く塗られていた。

 次の目的地がもう示されている。

 防音扉の方で、錠が外れる音がした。

 かちり。

 奈々香は立ち上がったが、鏡を見ようとしなかった。

「もうここにいたくない」

「耳は?」

 美月が訊く。

「大丈夫」

「大丈夫じゃない。眩暈がしたらすぐ言って」

「分かった」

 五人は荷物をまとめる。

 朔は投影機と液晶板をその場で撮影し、配線の位置も記録した。取り外して持ち歩くには大きすぎるため、記録媒体だけを証拠袋へ入れる。

 悠斗が先に扉を開く。

 廊下は暗い。

 遠くで雨が窓を打つ音がした。

 澪も続こうとした。

 そのとき、ピアノの上に一枚の紙があることへ気づいた。

 先ほどまではなかった。

 少なくとも、装置を調べたときには見ていない。

「澪?」

 朔が扉のところから呼ぶ。

「すぐ行く」

 澪はピアノへ近づいた。

 古い楽譜だった。

 七刻女学校校歌。

 紙は黄ばみ、角が丸くなっている。だが五線譜の上へ書かれた音符ははっきり残っていた。

 澪は頁をめくる。

 余白に文字がある。

 鉛筆で急いで書いたような細い字。

 見覚えがあった。

 高校時代、澄花が部室のノートへ怪談の出典を書き込んでいた字。

 少し右へ傾く「私」。

 最後の払いが長い「見」。

 間違いない。

 そこには、一文だけ書かれていた。

 朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。

 澪の呼吸が止まった。

 廊下では悠斗と美月が話している。

 奈々香は耳を押さえながら、姿見から少しでも離れようとしている。

 朔だけが、扉の前から澪を見ていた。

「何かあったか」

 目が合う。

 澪は反射的に楽譜を閉じた。

「何もない」

 自分の声が、思ったより自然に出た。

 朔は数秒こちらを見ていたが、それ以上は訊かなかった。

 澪は楽譜を二つに折らず、そのまま取材用の手帳へ挟んだ。

 胸元へしまう。

 初めてだった。

 今夜、この校舎へ入ってから。

 澪は朔に、見つけたものを隠した。

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  • この物語を最後まで読んではいけない ――七つの呪地と八人目の犯人――   第20話 先に振り返った澄花

     東棟の階段から響いた重い音は、十三度目で止まった。 どん、と最後の一音が校舎の底へ沈み、そのあとには非常ベルだけが残った。 赤い警告灯が明滅するたび、割れた鏡の破片が床の上で光る。つい先ほどまで、その一枚には透の姿が映っていた。 階段へ行くな。 死んだ透の唇は、確かにそう動いていた。「行かない」 澪が言った。 自分でも驚くほど強い声だった。 悠斗が東棟へ続く扉を見た。「でも、今の音を確認しないと――」「透が行くなって言った」「鏡に映ったものを信用するのか?」「今は、何も確認できてないまま近づく方が危ない」 美月も澪の隣へ立った。「賛成。さっきのは人が階段から落ちた音にも聞こえた。でも、本当に人なら声くらい出てもおかしくない。先にここで分かることを調べる」 奈々香は返事もしなかった。左耳に当てたガーゼを押さえ、割れた鏡を見ないよう俯いている。 朔だけは非常ベルの周期を数えていた。 やがて胸元へ固定した小型カメラを外す。「舞踊室の映像を見る」 悠斗が苛立ったように振り返った。「今?」「今だからだ。俺たちが見たものと、記録されたものが一致してるか確認する」 その言葉に、澪の胸元で手帳が重くなった。 中には、澄花の字で書かれた楽譜が挟まれている。 朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。 その一文を、澪はまだ誰にも見せていない。 朔は床へ膝をつき、カメラの液晶を開いた。 五人が横一列に並ぶところから映像を戻す。 一往復目。 五人。 二往復目。 五人。 澪たちの記憶では、鏡の中の悠斗だけが半歩遅れた。 だが保存映像では、悠斗もほかの四人と同じ速さで動いている。「違う」 澪が画面へ顔を近づけた。「ここ。悠斗が遅れたはず」「遅れてないな」 美月も確認する。 三往復目。 現実では、鏡の中の奈々香が一人だけ立ち止まった。 映像の中では、五人全員が同じ歩調で端まで進んでいる。「私、止まってたよね」 奈々香が掠れた声を出した。「鏡の中の私だけ。みんな見たよね」「見た」 澪が答える。 美月も頷いた。 四往復目。 澪の呼吸が浅くなる。 このとき、鏡の中には六人いた。 五人の後ろを、制服姿の少女が歩いていた。 右手首には赤い組紐。 けれど、小型カメラの映像には五人しか

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